'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
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「風林火山」史跡ガイド
津金寺[つがねじ]観音堂(北佐久郡立科町)

津金寺は永禄4年(1561年)川中島の合戦の際、住職善海をはじめ衆徒が武田信玄を応援したことから、旧領の地所を併せて寺領1000石の朱印状が与えられ、信玄が比叡山正覚院に帰依するにあたり、再び天台宗の寺院となりました。

当寺の寺紋は武田菱であり、改宗に関する文書など信玄の文書2通が、今も寺宝として保存されています。また、仁王門の向いには、信玄が川中島の合戦の時、武運長久を祈願し兜をかけたとされる松とそのそばに腰を下ろして休んだとされる石があります。

2007/05/24
瀬沢合戦跡(富士見町)

瀬沢合戦とは、「甲陽軍艦」によればおよそ次のような合戦のことである。

天文十一年(1542)二月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めようと合議し、甲信境の瀬沢に陣取った。この動きを察知していた晴信はひそかに軍勢を発し、三月九日朝、信濃勢の不意をついた。戦いは辰の刻(午前八時)に始まり未の刻(午後二時)に終わり、武田軍は信濃方1,621を討ち取って大勝したが、味方にも多数の死傷者を出した。

その戦場となったのは、瀬沢を中心に新田原から横吹におよぶ広い範囲と考えられる。(富士見町教育委員会)

2007/03/13
兵越峠(飯田市)

国盗り合戦の国境

此の峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が、上洛を志し、元亀三年(1573)十月三日(新暦十一月十八日)約3万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠を越したと言われている。

毎年十月、信州軍(長野県飯田市/旧南信濃村)と遠州軍(静岡県浜松市/旧水窪町)に分かれて「国境」をかけて綱引きで対決する「峠の国盗り綱引き合戦」が行われています。

2007/03/13
信玄滝(飯田市)

戦乱収まらぬ元亀三年(1573)甲斐の雄、武田信玄は三河攻めを行う際、この地を訪れた。

豪快に水を壺に叩き落としている滝を見ていると轟音とともに繁吹が信玄の身を覆って、顔を洗おうとした時、水面は鏡のように澄み渡り信玄の顔がはっきり映った。

信玄は大変驚き「霊感身を震わせた」と言ったそうである。さっそく家来に命じて不動明王を建立させ、滝の守り神とした。

2007/03/13
ジタジタ峠(飯田市)

ジタジタ峠から神之峰城跡を望む

天文二十三年(1554)武田信玄の率いる武田軍は、小笠原氏の鈴岡城を攻め落とし、その勢いをもって下久堅の文永寺を焼き払い、竜東の雄、諏訪氏の流れの知久頼元の居城、神之峰攻略のためここに立った。武田の将、山本勘助は霧の晴れ間に床山城を眺め、この山城は水を断つことが一番と計略し、眼下の玉川に兵を出し、城兵が水汲みに来たらと待ち受けていたが、五日たち六日たっても一人として城兵は現れなかった。

そうこうしていると、ある日の午後、神之峰の出丸の岩頭に兵が集まって馬を洗っている姿が眺められた。実は城兵達は白米を使って馬を洗っているように見せたのを武田軍は水で洗っていると思ったのである。これ程場内には水がたくさんあるのか、それなら今までの兵略は無駄であったのかと思い、さすがの智将山本勘助も、ジダジダを踏んで口惜しがったという。そのためこの地をジダジダ峠と称し、草木も育たぬ所となったという。(飯田市・上久堅観光協会)

2007/03/13
山本勘助物見の松(飯田市)

武田軍が知久頼元の居城、神之峰城攻めを行った際、武田の軍師山本勘助が城内の様子を伺うために登った松と言われている。現在の松は近年植え替えられたもの。

2007/03/13
長福寺・武田信玄公墓碑(木曽町)

天文二十四年(1555)甲斐の武田信玄は再度木曽を攻略しようと、自ら兵数百を率いて鳥居峠を越え薮原に出陣する。迎える木曽勢は地形険峻天然の要害を利して戦い持久戦となったが、同年八月、十八代義康は木曽の安全を計り和議を申し出る。

信玄はその和睦を大いに喜び、木曽家は源氏の正統高家であることもあり、息女万里姫を十九代義昌公のもとに嫁がせて親子の縁を結ぶ。

天正元年(1573)四月十二日、信玄は伊那駒場にて享年五十三才で病没する。

義昌は奥方万里姫と共に、父信玄を弔うため、墓所に遺品を埋め五輪の塔を建立して廟所とし、毎年旧七月十二日、二百把の明松を献して供養を行うこととした。

塔は一石五輪で七月十二日の文字が判読出来る。

2007/03/13
勝頼公の腰かけ石(平谷村)

天正三年(1573)五月、武田勝頼公は大軍を率いて、三州街道を南下、織田・徳川の連合軍と、長篠の設楽原で戦い、壊滅的な打撃を受けた。

そして、ただ一騎落ちてくるところを坂部の郷士、熊谷治部介直定が案内し、そのころまで三河と信濃の国境であった、この赤坂にたどりつく。

この石に腰をかけ、一休みしている処へ、後を追って、伯父の信重公と初鹿伝右衛門、小山弥助、土屋宗蔵等が駆けつけた。

一方、程近い滝の澤に、大老高坂弾正忠殿が、甲府より三百騎を率いて到着したと聞き、心身とも、ゆるりと腰をかけたという。

2007/03/13
和田城(飯田市)

本城は遠山氏三代の本拠をもった遠山景広が築城した城で西南より南に続く平場で前面は遠山川を見下ろし伊那山脈の南端をなす。後面は赤石連峰があり、四方を山で囲む遠山谷の中でもっとも広い和田平野の中心に位置している。

2007/03/13
音無の滝(茅野市)

川の瀬音がうるさく軍議が出来ないので信玄が大声でどなったところ、その一声で川の瀬音がなくなったことからこの川を音無川と呼ぶようになったと言われています。今でも音無川には幾筋もの滝が流れ落ち、このように美しい景観を残しています。

2007/03/13
音無川(茅野市)

戦国時代のすぐれた武将で知られる甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との北信濃の川中島での決戦のため、何万という大軍を引き連れて、諏訪へ入り、八ヶ岳の麓の棒道を進んで、大門峠の下まで来た。

そこで信玄は、主な家来を集めて、作戦会議をした。ところが、作戦はなかなかまとまらなかった。そこはそばを流れている川の瀬音と滝の音がザアザアとうるさかった。そのせいで作戦がまとまらないと思った信玄は、川にむかって「うるさい、しずまれ」と雷のような大声でひと声どなりつけた。すると川の瀬音が、ピタッとやんで、作戦がまとまり、川中島へ進軍した。

信玄のひと声で川の瀬音がなくなったことから、この川を音無川とよびようになったという。今でも音無川には幾筋もの滝が流れ落ち美しい景観を残している。

2007/03/13
銭岩(茅野市)

白樺湖の南岸、湖岸よりおよそ百メートルほど山に登ったところに銭岩がある。白樺湖がまだつくられなかった頃(白樺湖は温水溜池として昭和二十年度完成)のことである。

地元のある人が炭焼きをしようとして穴を掘った。すると土の中から穴あき銭がたくさん出てきた。付近を信玄の棒道が通っていることから、信玄の軍用金のかくし場所がこの周辺にあったのではないかとの伝承がある。

2007/03/13
五郎山(伊那市)

天正十年三月高遠城主仁科五郎盛信(武田信玄の第五子)は三千人の城兵と共に、城を囲んだ織田勢五万人の大軍と激戦を繰り返し、ついに全員壮烈な戦死を遂げた。時に盛信二十六才であった。

戦いが終わって、織田軍が引き上げると勝間村の農民たちが信盛以下諸士の屍を探して持ち帰り、村の若宮原で火葬にし、この山に埋めた。墓のあるこの山は以来、五郎山と呼ばれるようになった。

五郎山にある盛信の墓は高遠城を見下ろす。全国的に名高い高遠城址の桜の花の色が赤いのは、この時散った彼等の血の色が映るのだろうと伝えられている。

2007/03/13
上原城諏訪氏館跡(字板垣平)(茅野市)

石碑から南方平坦地一帯は室町時代後期からの上原城諏訪氏館跡(面積約1ヘクタール)で、戦国時代の天文十一年(1542)七月、武田晴信(信玄)により諏訪領主・諏訪頼重が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代(初代・板垣信方)の邸が造立された。そして天正十年(1582)三月までの四十年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった所です。

今日でもこの地籍は字名を「板垣平」と呼んでいます。

2007/03/13
頼岳寺(茅野市)

小林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院であり、高島藩初代藩主諏訪頼水は寛永八年(1631)上野国最大隻林寺(群馬県北群馬軍子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。

御廟所には諏訪頼重の従兄弟で頼水の父である頼忠とその夫人、頼水が葬られている。

2007/03/13
八重垣姫像(諏訪市)

浄瑠璃義太夫節の「本朝廿四孝」に登場する上杉謙信の息女で、信玄の子、勝頼の許嫁として情熱的な恋が描かれている。歌舞伎では「三姫」の一人という大役になっている。

2007/03/13
諏訪大社上社本宮(諏訪市)

全国に1万以上の摂社末社を持つ諏訪神社の総本社。古くから農耕や勝負、家内安全の神として信仰されています。諏訪湖の南に鎮座するのが上社本宮(諏訪市中洲)。前宮(茅野市宮川)は本宮の前身と伝えられ、諏訪盆地を望む景勝地にあります。

武田家とのつながりも深く、信玄は合戦のたび、「諏訪南宮上下大明神」と書いた幟を立てたり、また神社の祭事再興の具体的な指示を「信玄十一軸」として送るなどしました。

2007/03/13
諏訪大社上社前宮(茅野市)

全国に1万以上の摂社末社を持つ諏訪神社の総本社。古くから農耕や勝負、家内安全の神として信仰されています。諏訪湖の南に鎮座するのが上社本宮(諏訪市中洲)。前宮(茅野市宮川)は本宮の前身と伝えられ、諏訪盆地を望む景勝地にあります。

武田家とのつながりも深く、信玄は合戦のたび、「諏訪南宮上下大明神」と書いた幟を立てたり、また神社の祭事再興の具体的な指示を「信玄十一軸」として送るなどしました。

2007/03/13
諏訪大社下社春宮(下諏訪町)

全国に1万以上の摂社末社を持つ諏訪神社の総本社。古くから農耕や勝負、家内安全の神として信仰されています。諏訪湖の南に鎮座するのが上社本宮(諏訪市中洲)。前宮(茅野市宮川)は本宮の前身と伝えられ、諏訪盆地を望む景勝地にあります。

武田家とのつながりも深く、信玄は合戦のたび、「諏訪南宮上下大明神」と書いた幟を立てたり、また神社の祭事再興の具体的な指示を「信玄十一軸」として送るなどしました。

2007/03/13
諏訪大社下社秋宮(下諏訪町)

全国に1万以上の摂社末社を持つ諏訪神社の総本社。古くから農耕や勝負、家内安全の神として信仰されています。諏訪湖の南に鎮座するのが上社本宮(諏訪市中洲)。前宮(茅野市宮川)は本宮の前身と伝えられ、諏訪盆地を望む景勝地にあります。

武田家とのつながりも深く、信玄は合戦のたび、「諏訪南宮上下大明神」と書いた幟を立てたり、また神社の祭事再興の具体的な指示を「信玄十一軸」として送るなどしました。

2007/03/13